実際の導入例および論文のご紹介

諸外国におけるMBTIエキスパートによるMBTIに関する論文

「タイプ論と特性論の重要な違い」
(臨床心理学者 元APT会長、米国MBTIトレーナー ナオミ・L・クエンク、園田由紀訳)

出典:Japan-APT ニューズレター №1

 タイプ論とMBTIの活用において大きな障害となりやすい理由に、タイプ論を利用する人が、タイプ論と特性論の重要な違いを知らないことがある。ここでは、性格を説明する際に使われるこの二つの理論の重要な違いについて述べ、ユングの理論やMBTIを使う際に、この二つを混同することでどのような障害が起こるかについて説明する。

 なお、特性論とタイプ論の両方ともそれぞれ理論的な体系があるため、ここではどちらが「良い」のかを問うのではなく、二つを混合してタイプ論を特性論のように、あるいは特性論をあたかもタイプ論のように扱うことでどのような害を被るかを論じたい。タイプ論とMBTIの誤解とそれによって生じている誤用の多くは、タイプ論をあたかも特性論のように誤って解釈するからなので、特にその誤った解釈について述べることとする。

<特性論による研究方法の台頭>

 一般的に性格理論の研究者が特性論を好む理由として、次の二つがあげられる。第一に、これらの研究者は、タイプ論とクレッチマーが提唱した体型で性格を説明した考えと結び付け(Kretschmer1961;Shel-don,1941)、人間の性格の豊かさや多様性を反映することのない固定的な体系と捉えてしまうことから、本来タイプ論が持つ豊かさや多様性を認めにくい。第二に、特性論は研究に幅広く統計的な手法を用いることができることから、好まれる傾向がある。特性論は、基準をもとにしてそこからどの程度離れているかやちらばりをみる(平均、標準偏差等)正規分布を前提とするものだが、タイプ論の研究には適切な統計的方法論はほとんどない。特性論が一定の人数の被検者を集めて統計処理をするという方法での研究が可能なのに比べて、タイプ論は研究被験者ひとりひとりに時間をかけながら研究する必要があり、多くの時間と労力を要する。

<特性論に基づく理論と検査>

 身長、体重、年齢、知能(IQ)などに表される人の特徴はすべて特性論である。どの人にも身長や体重がある程度あり、年齢があり、知能がある。それらの量や程度の違いで、お互いに異なる存在となる。通常大勢の人の身長、体重、年齢、IQを測定すると、非常に身長が高い/低い、非常に体重が重い/軽い、非常に年齢が高い/低い、非常に知能が高い/低い、という人はまれで、大部分の人は平均に近く、中間に近い得点を取るものである。これと同じ考えで人の性格も特性論的なアプローチで表現できる。例えば、「彼女はとても楽観的な人だ」とか「彼はとても支配的だ」とか、「あの人はたいてい物事を堅苦しく考えて、心配性だ」といったとする。これらの性格を客観的に測定したいと考えるなら、楽観性、支配性、かたさ、心配性などの心の特性を反映するような質問一式をつくる。それを大勢の人に実施すると、ほとんどの人がこれらの特性の中程度を示し、比較的少人数の人が極端な程度のほうに報告する。ゆえに、これら性格特性は、他の特性尺度と同様、母集団が正規分布を示す。正規分布を統計学的にみると、質問に答えた六八%の人の得点がほぼ真中の範囲に分布し、両端に行くにしたがって徐々にその割合が減少すると、提唱されている。

<特性論が推し進めるもの>

 我々は人の極端なところは気づくが、人の「平均的」なことにあまり関心を向けない。極端な人は平均的な特性を示さないので、「一般的ではなく」「ふつうではない」人についての価値判断することは容易といえる。これらの人たちは時には「異常」と見られ、肯定的にも否定的にも解釈される。身長が非常に高い/低い、大変太っている/やせている、かなり年をとっている/かなり若いなどは、それぞれ長所も短所もあるので、極端な一定の評価はない。しかしとかくIQのことになると、極端に高いことがとても好ましいとされる。あまり知的でないよりは、より知的である方がいいことは、一般的に明らかだからだろう。

 これと似たような見解をとるのが、性格を特性的にみることと考えられる。我々は非常に楽観的であることに問題があると考えたり(現実を受け入れることができないなど)、あまり楽観的でないと、悲観的で落ち込みやすいと考えたりする。また、傲慢で干渉的、かつものすごく支配的な人を避けたいと思う半面、支配性がほとんどない人も力のない人としてとして避けようとする。過度に厳格な人は人生に対する視野や考え方が狭く、それとは反対の極にいる人は、統制がとれていないし、無責任であてにならないと思ったりする。また極端な不安は人を身動きできない状態に陥らせるが、不安がないと動機が与えられなかったり、方向性を失うと思ったりもする。 また、一方にいる人よりももう一方にいた方が良いとされるみかたもある。例えば創造性、リーダーシップ、洞察力などは、少ないより多くあるほうがよいとされるものであろう。このように特性論では、①誰もが少なくとも特性を「ある程度」は普遍的に持っており、②特性論的な見方には価値判断や評価が必然的に伴う(言語化されることもされないこともある)、ということが暗黙のうちに了解されているということだ。

 特性論でもうひとつ特筆すべきことは、人の特性は行動を生じさせるという見解である。人には一定の反応や反応レベルを引き起こす特性が内在しているため、一定の行動様式を示す。これは、発達初期のできごとから形成された特性(たとえば精神分析の「肛門性格」など)が症状を引き起こし、強迫性などの要因になるというフロイトの因果論的見解に似ている。

<タイプ論とMBTI>

 一方、タイプ論は、ある質的に固有なカテゴリーに基づいて人を特徴づける見方である。我々は時々「あの人は知的なタイプだ」とか「協力的なタイプだ」などといったりもする。この場合は、対極にもカテゴリーがあるため、両方の極を用いて人を適切に説明することはできない。すなわち「協力的なタイプ」の人を同時に「敵意のあるタイプ」とはいえない。

 このようにMBTIなどのタイプ論は、量や程度で人の特徴を説明するものではなく、常に対となる正反対の極があり、一方の極で特徴づけられる人は、他方の極で特徴づけられる人とは質的に異なるという見方をする。たとえば、りんごとオレンジは当然「果物性」という次元上では違いがあるわけではないが、質的に異なる果物である。人も同様、外向か内向タイプのどちらかに属し、感覚か直観タイプのどちらかに属するというアプローチをする。 

 ただ、人のタイプの場合は、先ほどの果物のたとえとは異なり、タイプ論は一方の極に属する人も、対極の心も使えるということを考慮に入れている。固定的で不変な「果物のタイプ論」とは異なり、心理学的タイプ論は力動的な体系を持ち、それぞれの心の間に複雑な動きや相互関係が成り立っている。りんごでありながらみかんの味を出すことは出来ない。しかし思考機能タイプの人は、思考機能を保ちながら、その対極の感情機能を用いて判断することができる。タイプ論のこのような特徴は、それぞれが複雑に作用して全体性を成しているが、一つひとつは質的に異なるという考えといえる。

<タイプはどのように質的に異なるか>

 それでは、どのような意味において、タイプ論における指向(心の機能などの一つひとつのカテゴリー)が「質的に異なるカテゴリー」といえるのであろうか。まず指向とは、それぞれが正反対の極に位置する心の活動であり、二つを同時に使うことはできないものを示す。自分の身の回りで起きていることと自分の内面に同時に集中することはできないし、具体的な現実とこれから起こりうる可能性の両方に同時に意識を向けることはできない。しかし、我々は二つの対極の機能を継続的に交互に使用するが、いつもどちらかというと使いやすいほうの指向を優先的に使い、その後でもう一方の心を使うのだ。

 この相反する二つの極の専門的な定義はわかったとしよう。ここでひとつの疑問がわいてくる。我々の中に、どのようにしてこれらの質的に異なるカテゴリーが生まれ、発達しているのか、ということだ。

 人はそもそも生まれ持ったタイプや個人の指向(心の利き手)があり、それ自体が、その個人の人生を導くのに重要な原則のようなものとして働いているといえる。これをふまえて考えると、人の特性とは、特定のタイプの指向、および心の指向の習慣的な利用の結果としておのずと形成されていると考えられる。さらに人の特性は、個人の根底にある指向や、複数の指向(機能や態度)間における相互関係において、それらにまとまりを持たせる「接着剤」の働きをするために、特性はお互いに多かれ少なかれ似通ったものとなる。

 そのために、タイプの違いが説明されるときに、特性論のまとまりから説明されて、タイプ観察が多くの研究調査に用いられることが多い。これらの研究の多くは、タイプの一次元しかとりあげず、タイプのもつ全体性による特徴の探求についてはほとんど行われない。これには、先に述べたようにタイプを統計学的に研究することが難しいことにもあるだろう。タイプの統計的研究を行う場合は、タイプカテゴリーの独立性という基本的前提を傍らにおき、MBTIのデータを連続得点に変換し、特性論をベースとした統計的方法論を用いるほかない。このとき、タイプ論の基本論を理解している研究者であれば、この種の研究結果の解釈には、タイプ論の本質を必ず念頭におき、あくまでもタイプ論の文脈において慎重に解釈するよう気をつけようとする。しかし一方、タイプ論の理論的背景を考慮に入れない人は、このような研究結果を特性論の立場から解釈し、誤った結論を導き出してしまう。

 しかし、タイプ論を踏まえてなされた研究のなかでも、研究計画、実験、結果解釈のすべての段階において、タイプ論の力動的特徴(Dynamic Character)がないがしろにされていることが残念ながらほとんどである。その結果、タイプ論の豊富な解釈をうまく活用できないで終わってしまう。

<不適切である正規分布と基準の使用>

 タイプ論と特性論のちがいを理解する上で重要なことは、タイプにおける指向や指標などは、特性とは異なり、その母集団が正規分布にならないことである。たとえば、外向―内向の指標における指向得点を並べてみると、これらは双峰型に近い形を示す。すなわち、この指標における対極によって特徴づけられる、まったく異なる二種類の人たちがいると解釈できる。これは、特性論の場合は正規分布するため、大勢の人の得点が中央に集中するのに対して、双峰型は、低い指向得点が位置する中央のレンジに分布するのではなく、ほとんどの人がどちらかの極に振り分けられることを示している。

 またもうひとつ重要なことは、タイプ論には「標準」や「基準」がないことである。つまり、タイプには「ふつうの」とか「最良の」得点やタイプは存在しないのである。各指標には、回答者に自分の指向を確認する機会を多く与えるために、たくさんの質問が用意されている。したがってMBTIによって示される指向得点は、特性の程度を測定するものではなく、受検した者がどちらの極のほうをもう一方より好んで用いているか(指向しているか)についての個人の明確度を見積もるものといえる。つまりMBTIの指向得点は、MBTIの回答者がそれぞれの指標における二つの極のうち一方について、「非常にはっきりとした」「はっきりとした」「中程度な」あるいは「微妙な」指向をしていると答えたことを示しているのである。そのため特性を測定する得点とは異なり、MBTIの得点は各指標について相対的に高いか低いか、を測定したことを意味するものではなく、単に受けた個人がどのくらい確信を持って指向が明確に報告されているかを反映するに過ぎないのである。

<タイプの表出としての行動>

 タイプ論では、その人のタイプがある行動を生じさせるとは考えず、むしろ人の行動は(多くの場合特性という手段を介して生じる)タイプの表われとしてとる。この考えは、フロイト派の還元論/因果論的な見方とは対照的な、ユングの予想論的/目的論的な見方と一致する。すなわちタイプ論の目的あるいは目標とするところは「個性化の過程」の最終段階にある、個人内の完成を求める人の本能と関連しているのだ(特性論そのものも予想論的/目的論的な見方と必ずしも矛盾するわけではないが、通常はこの観点よりは、因果律や原因論の枠組みから考察される)。

 しかし、タイプ論で提唱された「外向」などのタイプの指標は特性と捉えられ、特性論として扱われてしまうことが多い。事実、主要な性格検査にはたいてい外向/内向の測定尺度があり、特性として説明されている。たとえばCattell 16 ― PF(1970)では連続体が前提となっており、低い得点をとった人は、高い得点をとった人よりも「外向性があまりない」と解釈される。このような体系では、人の行動を、その人の外向の程度が起こす作用として説明することが多く、「あなたは外向性が高いので、人との交流を好むのです」などと解釈される。

 一方タイプ論では、原因に帰属して何かを述べることは適切でないと考えるため、「あなたが人と交流を好むのは、あなたが外向を指向することの表れと考えられます。これはあなたが外向を指向することを示すひとつの表れ方でしょう」ということになる。これをより理論的にいうと、「あなたはこれまでの人生で、外向するという枠組みを通して世界を体験し、外向することに関連するたくさんの特性を発達させてきたのでしょう。あなたが多くの人と交流することを好むのもそのうちのひとつといえるでしょう」となる。

<タイプの指標を特性として扱うとどうなるか>

 タイプ論とMBTIの誤用は、すでに述べたタイプ論と特性論の違いから生じると考えられる。

●正規分布を仮定することによって誤った解釈に導いてしまう

 タイプの指標やその得点(指向得点)が正規分布を示すと仮定してしまうと、ある得点をとれば「正常」、または「良い」と考えられ、そもそも人を同等に望ましいカテゴリーに分類する目的を持っている得点とは異なった意味を与えることになる。タイプ論を解釈するときに正規分布を誤って仮定することで、質的なタイプの指向の違いよりはむしろ、タイプの量的な「程度」について説明することが助長される。以下にこの種の誤りが及ぼす影響について例をあげる。

 外向/内向の指標を特性として扱う場合、人はただ外向(尺度の作られ方によっては内向)を実演する程度差があるということになる。内向とは、外向(または内向)が低い状態、また外向が無い状態として定義される。タイプ論が本来提唱しているように、外向と内向を質的に異なる存在のあり方として考えるならば、一方を他方の低下、あるいは消失と定義することはできない。本来、外向と内向それぞれを定義するひとつのまとまりを質的に異なるものとして扱わねばならない。するとタイプ論のいう外向と内向は、習慣的にエネルギーが外に向かって流れるか(外向)、内に向かって流れるか(内向)だけを見ており、その表れとして、心的なあるいは行動上の特徴があることが理解できる。あくまでも得点が、外や内に向かうエネルギーの量や程度について述べているのではないのである。

●スキルや病理についての推測が成立してしまう

 あなたのMBTIの直観における得点が知り合いより高い場合を、特性論的に考えると、あなたはその人より「もっと直観的」であると解釈してしまうだろうし、場合によっては、その人より「良い直観をもっている」と思い込んでしまうかもしれない。するとそう解釈された相手の人は、もっと直観を向上させなければいけないと思うかもしれないし、次にMBTIに回答しもっと高い直観の指向得点をとったとすると、前よりも直観的になったと解釈してしまうかもしれない。あるいは直観的なことを必要とする会社では、MBTIで直観の指向得点が高い人を、「直観に優れている」と捉え、採用しようとするかもしれない。

 これらはいうまでもなく、すべてタイプを特性論として捉えた完全な誤用である。このように、タイプの指標を量や程度で述べる場合、我々はそのスキルのレベルにおける高低や、そのほかの「よけいなこと」について誤った解釈をしてしまう。たとえば、ある人が内向の指向得点が高いことを「とても内向的」と捉えたら、その人は社交的なスキルに欠け、人への興味がなく、内気と解釈してしまうだろう。また判断的態度の指標で高い得点が報告されたことを「とても決断が早い」と誤って解釈してしまったり、決断を最後まで待つ知覚的態度の得点が高い人のほうがいいと思いこんでしまうこともあるだろう。またすべての指標において指向得点が低い人を、自己理解や自信に欠けているため用心すべきと考えたり、あるいは、両方の指向をバランス良く使っていて、柔軟性があると評価してしまったりと、恐ろしいほどの誤った解釈をしてしまうという結果に陥るのである。

 すでにおわかりのように、MBTIのタイプ指標や得点を特性として扱い、すべてスキルに帰属させて考えたり、極端な得点や中間の得点を病理的に見たり過度に評価するなどすれば、タイプ論やMBTIに対して、いろいろな間違いに陥ってしまう。たとえば、特性論の測定に伴う「正常性」を求める場合、得点が中間に位置することが最も良いと考えるようになるだろうし、あるタイプ指標が「平均」よりも高い/低いことを良いとする場合、極端を選ぶようになるだろう。その結果、どれかひとつのタイプが「基準」となってしまうことがまかり通ることになる。

 さらに特性論的な見方でタイプを解釈する際に生じる最大の弊害は、他者のその人の固有のものを受け入れなかったり、それぞれの価値を置くところや動機などを同等に評価する機会を失うことである。

 そもそもタイプ論は、それぞれの人の態度、動機、行動などは、それぞれが指向するタイプによってまったく異なっており、あるタイプにとって当たり前でふつうのことが、他のタイプには当たり前でないことがある、と教えてくれる枠組みを持っている。たとえば内向を指向するタイプの子供が、学校の休み時間のほとんどをひとりで本を読んで過ごすことは、そのタイプに自然なことであり、その子にとっては当たり前、つまり「ふつうのこと」なのである。しかし反対に本来外向タイプの子供が学校の自由時間を前者の子供と同じように過ごした場合は、心の状態に特別な注意を払う必要があるかもしれないのである。

 ところが、単一の一定の基準をもってこの子供をみた場合、どちらの子供も内気、非社交的で社会的には不適応と捉えられたりする。また人を統率したり組織しようとする心の動きは、性別を問わず外向を指向するタイプの表われといえる。それを男性の特権のように捉えて、一定の基準が確立している我々の文化では、女性がそうすると、強引とかしきりたがりやなどマイナスに捉えられることがよくある。

 このように、多様なタイプからなる個人個人の「個性」を、単一基準を用いて捉えてしまうことから生じる悪影響の例は無数にある。これらの弊害を知るための手がかりは、MBTIハンドブック(I. Myersら著1985)で紹介されている内向と神経症や不適応などの尺度との相関関係を示すデータなどで見つけられる。また最近の研究に(ThornとGough)、あるタイプについては適応が良好で、心理学的に健康と描写されている一方、他のタイプについては全体的に否定的な記述がなされているようなこともわかってきた。これらのことは、タイプを扱うひとりひとりが肝に銘じておかねばならないことである。

 当然、MBTIを利用する多くの人(有資格者)は、それが他のパーソナリティとは大きく異なることは理解している。しかし、まだ有資格者のほとんどが、これらの違いの深刻さや重要性について真にはわかっていないのが実情である。

 本論が、読者にとってタイプ論の基本的な考えについての理解を促し、その正しい理解がより有効な活用につながっていくことを願う。

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